教え方にもコツがある

幼児、児童、生徒の教育をメインに、自らの学びから、成長するために本当に大切なことは何かを考察していきます。

なぜdigraphが必要なのか

phonics で挫折させないために

 前回に引き続き、phonics 指導について書きます。

 前回はphonics 指導の大切さを語りましたが、教師が思っているほどphonics を大切だと生徒が感じていないことが、生徒がphonics を忘れていく原因だと書きました。

 

 なぜ、生徒はphonics の有用性を感じないのか。

 

 それは、phonics が「使えない知識」だと単語練習導入時に感じ、「使わない知識」へと格下げされるからです。

 

 前回の内容と重複しますが、上のことを予防するために、まず、生徒にphonics の「使い方」を、音のlinking(blending)の活動を通して教えます。

 そうすることで、phonics が「使う」知識であることを刷り込みます。

 こうしてphonics を「使う」方法を学ぶわけですが、次の壁が立ちはだかります。

 

 それは、phonics の知識だけでは正しい読み方と食い違う単語です。

 

 前回、speakを例に使ったので、今回も同じ例で書きます。

 speakをphonics の知識で読もうとすると、

 

 s「ス」p「プッ」e「エ」a「ア」k「クッ」

→「スプエアク」 →    「スペアク」

 

 となります。生徒は「この単語は、今まで一生懸命覚えたphonics を使って読むと、スペアクと読むことが分かった!」と考えます。

 ところが、教師はこう発音します。

 

 「スピーク」

 

 生徒の頭の中は「????」となります。

 

 こういう経験を何度も体験することで、生徒は「phonics って使えるときもあるけど、使えないことも多い、汎用性の低い知識なんだなあ」と感じるわけです。

 こうして、phonics「使えない」知識に格下げされていきます。

 こういった事態を防ぐためには、digraphの導入が必要不可欠なのです。

 

digraphとは何か

 まず、digraphの指導について書く前に、digraphとは何かについて説明します。

 

 digraphとは、phonics とは別の音を作り出す、2つ以上のアルファベットの特別な組み合わせのことです。

 

 代表的な例で言えば、thやwhでしょう。

 phonics 指導の延長で、ここら辺まではしっかりと押さえる英語教師は比較的多いと思います。

 

 ところで(あなたが英語教師だとしたら)、こういったdigraphをいくつ教えていますか?

 

 私の例で恐縮ですが、26字のアルファベットのphonics のあとに、25組教えています。

 特に25組という数字に根拠はありませんが、phonics は日本語の「あいうえお」と同じようなものだと最初に生徒に伝えるため、なんとなく同じくらいの数にしようと思ってのことです(ところで、あいうえおって46文字なのに、なんで50音って言うんですかね?)

 

 なかでも、二重母音(eaやaiなどの母音が2つ並ぶ組み合わせ)は最初に教えます。

 そのとき、二重母音の基本的なルールも教えます。

 それは、二重母音のときは、前の文字の名前読みになる、というルールです。

 

 上の例で言えば、speakのeaは、前の文字のeの名前読みになるので、E(イー)と発音することになります。なので… 

 s「ス」p「プッ」ea「イー」k「クッ」

→「スプイーク」 →    「スピーク」

 となるわけです。

 

「基本的なルール」と書いたのは、勿論例外もあるからです。

 例えば、ooは「ウー(moon, noon)」か「ウッ(cook, book)」と読みますし、ieは「イー(field, piece)」と読みます。

 あくまで、二重母音のいくつかを「基本的なルール」で記憶の紐付けをするためのものですので、全てに当てはまるわけではありません。

 

digraphの指導方法

 ここでも、phonics の音のlinking(blending)の手順を使います。

 ワークシートでも、パワーポイントでも何でもいいのですが、例えば、ea(イー)を覚えさせるためには、それ単体で覚えさせるだけではなく、そのあとでspeakなどの実際の単語のlinking(blending)をさせます。

 

 具体的に手順を3段階で説明します。

 

  1. eaをイーと読ませる
  2. speakのphonics を「ス」「プッ」「イー」「クッ」のように、1文字ずつ読ませる(ただし、eaは色を変えたり、四角囲いをして、1文字扱いであることを示す)
  3. linking(blending)をしていく。「ス」「スプッ」「スプイー」「スプィーク」

  

 これが、digraphの指導手順です。

 

 phonics →音のlinking(blending)→digraph 

 

 ところで、私が教えているdigraph25組の例を全て挙げると長くなるので端折りますが、中学校で習う単語の中に含まれるdigraphのうち、出現頻度が高いものを選びました。

 

 そして、それ以外のdigraphについては、教科書で出てきたタイミングでその都度説明していきます。

 

 例えば、nationという単語が出てきたら、

「tionはdigraphです。phonics で読めばティオンですが、tionはションと読みます。また、tionは特別なdigraphで、その前につく母音は名前読みになります。なので、ationはアションではなく、エイションと読みます。そうそう、一年生で習ったstationもこの流れで読めますね。では、itionは? そうそう、アイションだね…」のように説明します。

 

 ポイントは、全てを一度に教えるのではなく、細切れに、高い頻度で、何度も指導していくことです。

 

 

 繰り返しますが、その目的は、phonics という発想が頻繁に「使う知識」であり、「使える知識」であることを理解してもらうためです。

 

音声指導の必要性

 「音声指導の必要性」と書きましたが、これは「rとlの正しい発音の仕方」とか、「arとerとirとurの発音の区別の仕方」とかのことではありません。

 どのアルファベット(の組み合わせ)が、どのような音を作り出しているのかを指導していくことを、ここでの「音声指導」という言葉を使う意図だと考えて下さい。

 

 なぜ、そこまでして生徒にphonics やdigraphの有用性を理解させるために、音声指導を続けなければいけないのでしょうか。 

 

 それはずばり、単語暗記が効率化されるからです。

 その根拠については、次回のブログで書こうと思います。

 

 単語暗記って、中学生が英語を嫌いになる理由として、結構上位に来ると思うので、その負担がグッと軽くなるよ!と言われたら、なかなか情報として価値があると思いません?(逆に怪しい?)

 

 先に言っておきますが、これは英語が得意な生徒や、英語学習を比較的効率よく行ってきた私たち英語教師が当たり前にやってきたことです。

 ただそれを言語化するだけですので、あまり期待しないで下さいね(ハードルを上げたり下げたり、大変です)。

 

 しかし、slow learnerがなぜ単語暗記に苦労するのかにも切り込むつもりなので、「あの子は単語練習をよく頑張ってくるのに、なかなか単語が覚えられないんだよなあ…謎だなあ…」と感じている方は、ぜひお楽しみに(またハードルを上げました)!

 

では、また!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

なぜphonicsを忘れてしまうのか

必要がなければ忘れる

 前回の続きで、今回もphonicsについて書きます。

 1年の最初に(もしくは今の時代は小学校で)しっかりと学んできているはずのphonicsですが、なぜそれを忘れている生徒が多いのでしょうか。

 

 先日、Twitterで英語の教員の方が

phonicsは本当に必要なのか。自分が英語を学習してきたときは、綴りの練習からなんとなく音のルールを学び、覚えてきた」

 と呟いておられました。

 英語の教員の方で(私もですが)こういう学習過程を経てきた方は多いはずです。

 だから、同じように生徒も学んでいくはずだと考えている。

 しかし、現実に、目の前にその帰納法的な学習では音のルールを見つけられず、いつまでたっても英語が読めない生徒がいます。

 そういった生徒を少しでも多く救うために、phonicsは有用ではないかと考えています。

 

 では、なぜphonicsが有用ではないと考える英語教師がいるのか。

 まさに上の問いに対する答えが、生徒がphonicsを忘れていく理由に直結しているのです。

 まず、phonicsが有用ではないと考える英語教師の思考にアプローチしていこうと思います。

 

phonicsの指導が、単一文字だけ

 phonicsが有用ではないと考える英語教師は、そもそも優秀な学習者であったケースが多いはずです。

 数ある単語の音声パターンから、「こう書かれているときは、今まで習った英単語の音声パターンからいうと、こんな感じ」と、経験則的に分かってしまう頭脳を持っています。

 また、phonicsの指導をする場合に、アルファベット一つ一つの音、もしくはthやwhなどの代表的な連続文字の指導で終結している場合が多いのではないでしょうか。

 

 そして、そのパターンに当てはまらない単語がいかに多いことか、ということも知っています。

 

 上の指導でphonics指導が完結しているのだとすれば、phonics指導はほとんど役に立たず、「え、これ教えた意味あるの?」と感じるはずです。

 

 しかし、本来のphonicsの指導はこの段階では終わらないのです。

 

 英語教師の多くが経験則的(帰納法的)に分かっている「なんとなくこう読むはず」の「なんとなく」を一般化(言語化)し、音の繋げ方(linking)まで指導することで、初めてphonicsの指導が効果をあげます。

 

「そんなの知っとるわ!そこまで知っていて効果がないと思っとるんじゃい!」という方は、これ以上この記事を読み進めてもあまり意味がありませんので、そっとページを閉じて下さい笑(お役に立てず申し訳ありません)

 aは「ア」から、thは「ス、ズ」まで指導してphonicsは終わっています、という方は、この後の記事が参考になる可能性があります。

 とは言っても、今回の記事だけでphonicsの指導の全てを説明するのは大変なので、数回に分けて書くつもりでいますが、興味があればお付き合いください。

 

全然phonics使わないじゃん!

 次に生徒がphonicsを忘れていく過程を説明します。

 単純な話ですが、脳は使わない知識を「必要のない知識」として捉えます。

 脳のメモリーには限りがありますから、こうした「必要のない記憶」は忘れるようになっています。(私たちの脳はなんて賢いのでしょう!)

 

 つまり、生徒がphonicsを忘れるのは、phonicsを「使えない(使わない)知識」だと感じているからに他なりません。

 

 その理由は2つあります。

  1. 使い方を学ばないから
  2. 使えない例から学ぶから

 順番に説明していきます。

 

1. 使い方を学ばないから

 phonicsの使い方とはまさに、音の繋がり方のことです。

 例えばdogという単語がなぜ「ドッグ」になるのか。

 多くの生徒は、「dはドゥッ、oはオ、gはグッ、だからドッグと読むのです」で事足ります。

 

 しかし、slow learnerの生徒は、これでは不十分です。どこまで教えてあげるべきなのか。

 上の説明のあとに一緒に音を繋げていきます。

「じゃあ音を繋げていこうね。dはドゥッ、doでドゥオ、dogでドゥオグ、ドゥオッグ、ドッグと読みます」

 このとき、一文字ずつ増やして音を繋げていくことが大切です。

 dとoとgのそれぞれの音から、全体の音へと繋がる過程を、丁寧に、何度も指導していくことで、phonicsが単語の音を構成する要素であることを体感的に学習させます。

 それが、phonicsが「使える」知識であるという認識を生み出し、phonicsを忘れてしまう事態を防ぎます。

 

2. 使えない例を学ぶから

 ここまでの指導内容は大体、アルファベット指導のために教材を買えばアルファベット練習の後ろの方のページに付随しています。

 そこまで指導したのにも関わらず、忘れる生徒だってたくさんいます。

 それは、phonics指導が終わり教科書に入ったところで出てくる単語に原因があります。

 さて、教科書の最初の方のページで、英語教師は生徒にどんな単語を学ばせるのでしょうか。

 

 特別な工夫をしなければ、数字や曜日、月などではないでしょうか。

 

 そしてそれらは、見事にphonicsのルール外の単語たちなのです。

 

 昔からあるような単語は、phonicsのルールに沿わないことが多いです。

 そもそも、phonicsを完璧に学んでいたとしても、読めるのは全ての英語の80%と言われています。

 phonicsのルールを学んだあとすぐに、ルール外の20%を一生懸命勉強させられる生徒の気持ちを想像してみましょう。

 

「oneって、この前やったphonicsだと、オネなのに、なんでこれでワンなんだ…?」

「Wednesdayって、どう読んだってウェドゥネスデイじゃん…phonicsってなんだったん…」

 

 日本語で言えば、1年生が「五」という感じを「ご」という読み方で勉強したあとに、「五月雨(さみだれ)」「五月蝿い(うるさい)」などを一生懸命覚えさせられるようなものです。

 

 それだけではありません。

 

 phonicsと合わせて指導しなければいけないのが、上で言及したthやwhなどの2つ以上のアルファベットで決まった音を構成するdigraph(ダイグラフ)と呼ばれるものです。

 

 そしてこのdigraphは、phonics以上に種類があります。全てを一度に教える必要はありませんが、代表的なものと、母音が2つ重なった場合のルールについては、必ず触れておかなければいけません。

 でなければ、speakが「スペアク」ではなく、「スピーク」と読む理由が説明できないからです。

 何度も言いますが、phonicsが役に立たないと生徒が感じた時点で、その知識価値は脳内でランクダウンし、忘れてよいカテゴリーに分類され、記憶の彼方へと追いやられてしまいます。

 

 phonicsが有用であることを生徒に教え示すこと。

 そしてそのために、phonicsやdigraphなども含めて正しい音声指導の流れを知っておくことが大切です。

 なかなか字面では伝わりにくいのですが、一度正しい流れのphonics指導を受けることが一番効果的です。

 学習者の立場になって経験すること以上に、自分の今の指導観を変えてくれることはありませんから。

 

 では、正しいphonicsの指導はどこで受けられるのでしょうか。

 YouTubeなんかでよい指導動画があればご紹介したのですが、私の求めるようなものは見つかりませんでした(探し方が悪いのか…?)

 

 じゃあお前が動画作れよ、って話なんですけど、めんどくさいので嫌なんです笑!

 

 ここまで偉そうにphonicsがなんやかんやと語っておいて、最後に人間の器の小ささが露呈してしまう結果に終わりましたね。

 次回はdigraphについて書こうと思います。

 

 ではまた!

 

 

 

 

 

 

英語でまず教えるべきこと

言語習得の順番

 そう言えば私は英語の教師なのに、英語に関わる内容を一つも書いていないなあと気付いた今日この頃。

 というわけで、日々の実践も交えながら、英語の記事を書き連ねていきたいと思います。

 

 さて、英語は言うまでもなく言語の一つです。

 私たち日本人にとってそれは、ほとんどの場合が第二習得言語となります。

 母国語である日本語と、第二習得言語である英語が単純に比較できないことは百も承知ですが、それでもかなりの共通項があることは想像に難くありません。

 例えば日本語習得の順番を、英語の4技能を使って順番に並べていくとこうです。

 

  1. Listening(赤ちゃんの時は、周りの人間が話している言葉をじっと聞いていましたね)
  2. Speaking(聞いた言葉を真似し、喃語を話し始めます)
  3. Reading(目に入る平仮名を一語一語読み始め、簡単な絵本に興味を持ち始めます)
  4. Writing(小学校一年生で鉛筆を持ち、平仮名の書き方を習い始めます)

 

 では、英語嫌いになる中学生の多くがどのような学習過程を辿っているのかを確認してみましょう。

 

  1. Writing(中学校に入り、単語テストの多さに辟易します)
  2. Reading(とりあえず教科書を音読させられまくります)
  3. Speaking(習った文法を使い、予定調和的な会話を冷めた気持ちのまま強いられます)
  4. Listening(とりあえず毎回テスト形式で問題を解かされますが、聴き方については教えられません)

 

 いかがでしょうか?

 今では、だいぶ改善されてきた英語の教育方法ですが、こういった英語教育を受けてきた生徒(大人)は多いのではないでしょうか。

 母国語の習得過程と比較すると、見事に逆転しています。

 私は今、この逆転した教育過程の中で学習してきた中学3年生を今年になって担当することになりました。

"Do you like English?"

    この質問にYESと答えた生徒は、100人中7人でした。なんともチャレンジのしがいのある状況です。

 第1回目の授業の見取りの中で、多くの生徒が英語が自力で読めない実態が浮き彫りになりました。

 そこで、第2回目で導入した活動が、phonicsです。

 

phonicsの有用性

 phonicsとは、アルファベットの読み方のことです。

 アルファベットには、「名前」と「読み方」の2種類の音があります。

 平仮名は「あ」の文字は「あ」であり、読むときも「あ」ですよね。

 しかし英語では、例えば a という文字には「エイ」という名前がついており、読む時は「ア」と読みます。

 この「ア」という読み方のことをphonicsと言います。

 私たち日本人に馴染み深いのは、「名前」の方です。

 ところが、英語を読むときに必要なのは、「読み方」の方なのです。

 第2回目の授業でこのphonicsがどれだけ定着しているかを調べるために、1分間で26アルファベットのphonicsがいくつ言えるかをペアで確認させました。

 全て正確に言えた生徒は、100人中3人でした。

「あいうえお」表を渡して、「1分間でどれだけ読めるかやってごらん」と言えば、きっとほとんどの生徒が全て読めるはずです。

 文字数で言えば半分程度のアルファベットなのにも関わらず、読めないのです。

 では、一体今までどうやって英単語の読み方を覚え、綴りを覚えてきたのでしょうか。

 膨大なワーキングメモリを必要とする、なんとも非効率な脳の使い方をしてきたに違いありません。

 slow learnerである生徒たちが、英語学習に嫌気が差し、諦めてしまうのにも納得です。

 

 まず教えるべきは、phonicsです。

 これに反対をされる英語教師は、そうはいないのではないかと思います。

 そして、私が対峙する生徒たちも、1年生の時にphonicsを学んできたはずです。

 

 ところが、全く覚えていないのです。

 

 これは、日本の多くの中学生が陥っている状況ではないかと、密かに懸念しています。

 

 なぜ、覚えていないのか。

 

 中学生が、phonicsに実用性を感じていないからです。そして、使わないからです。

 

 なぜこのような状況が生まれてしまうのか。

 これは、次の記事で書こうと思います。

 今回は、日本語の「あいうえお」に相当するphonicsから英語学習が始められるべきだという内容に留めておきます。

 

 それでは、また!

 

問題を抱えた子どもを目の前にしたら

問題行動をどう捉えるか

 目の前で起こる子どもの問題行動に対し、あなたの思考はどう働きますか?

 付随する感情は、怒りや驚き、失望など様々かもしれませんが、きっと多くの人が、「一体なんでこんなことをするんだ?」と考えるのではないでしょうか。

 私も以前はそうでした。

 問題行動の根底にある原因を正確に掴むために、勉強に勉強を重ね、児童心理から発達障害精神障害人格障害のあれこれを学びました。

 恥ずかしながら、時にはしたり顔で「あの子の症状を見る限りだと、ADHDとLDのスペクトラムが強めな印象を受けるなあ。度重なる失敗経験から、反抗性障害を引き起こしているかもしれないね」などと似非専門家のような真似事をしたこともありました(黒歴史です、付け焼き刃なのに恥ずかしい…)。

 

 問題行動の裏側に潜む原因追及が無駄だとは思いません。しかし、当時の私は、原因から対策へとうまく繋げられていなかったように思います。これが、付け焼き刃が付け焼き刃たる所以でした。

 私は研究者ではなく、子どもを目の前にする教育者です。比重としては、「対策」の方を重視しなければならない立場だったはずだと反省しています。

 もっと言えば、私の原因追及の過程など正確さとは程遠いものであったに違いありません。

 例え優れた研究者であったとしても、この原因追及が100%正確である保証はどこにもありません(主な原因を探る上では有効であると思います)。子どもの発達や心理状況、脳の働きや生育環境、人間関係などが複合的に関与し合い、目の前の問題行動が発生しているわけですから、それらを全て正確に言い当てることは、検証の仕様がない以上、極めて困難でしょう。

 

フィンランド式スキル思考

 フィンランドの教育現場では、この問題行動の捉え方が私のそれ(そしてそれは大多数の教育従事者のそれと似通っていると認識しています)とは大きく異なっていることを学びました。

 フィンランドでは、問題行動の原因追及より、その後の対策に力を注ぐ「スキル思考」が主流のようです。

 ある問題行動を目の前にしたときに、「この子はどういう問題を抱えているのだろう」ではなく、「この子にとって今必要なスキルは何だろう」と考えるのだそうです。

 つまり、「問題行動」そのものの捉え方が、日本式の「心か頭か環境、その他いずれかに問題を抱えているから起こる」というものではなく、「より良く生きるためのスキルが、まだ身についていない」と考えるのがフィンランド式だそうです。

 

スキル思考のメリット

 この考え方のメリットはいくつもありますが、個人的に感じる大きなメリットを2つ紹介します。

 

  1. 教える立場の感情処理

「なんでできないんだ」「どうしてそういうことをするんだ」こういった原因追及に伴う思考は、怒りの感情に結びつきやすい傾向にあります。

「どうすればできるようになるのだろう」「どんなスキルが必要なのだろう」こう考えることで、冷静に考えることができるようになり、結果として目の前の子どもに適切な支援や提案を行えるようになります。

 在宅勤務が続き、私自身我が子に勉強を教える時間がたくさんありましたが、やはりイライラすることもかなりありました。

 その怒りの感情の根底には、「これくらいは分かるだろう」「この問題はできて当たり前」という主観が固定されています。その固定概念を覆すためにも、「どうすれば…」「どのようなスキルが…」と冷静に考えることは非常に有効であったように感じます。

 

  2.  肯定的な話し合いへ

 教師がある子どもの問題行動対策をするときに、保護者の協力や理解が必要なことがあります。

 そのときに、「A君は授業中に教師の話を聞かずに出歩いてしまうことがあるのです。何が原因だと思われますか?」と原因追及のために話を進めてしまうと、話し合いは否定的な方向へと向かいがちです。

 保護者によっては、子どもの問題行動を迫られている、今までの家庭教育を否定されている、と感じるかもしれません。

 それを、「A君がよりよく学ぶためには、教師の話をより集中して聴き、席に座って学習に取り組むためのスキルが必要だと考えているのですが、どのような練習が必要だと思われますか」と切り出すことで、話は子どもの「未来」へと向かっていき、話の内容も肯定的なものになります。

 A君の好きなものや興味関心などにも話が及び、より深い子どもへの理解に繋がる機会になるかもしれません。

 

問題行動を未習熟のスキルに

 フィンランド式スキル思考の基本概念は、問題行動が起こるのは、その子に問題があるから、ではなく、まだ学んでいないスキルがあるから、というものです。

「問題行動」=「スキルの欠如」と捉えることをスキリングと呼びます。

 スキリングをするためには、「問題を解消するには、この子はどのようなことを学ぶ必要があるのだろう」と考えることが第一歩です。

 このとき、トートロジー(反復同意)を避けるために、スキリングは解決志向アプローチのスタンスをとります。

 つまり、スキリングは問題行動をやめるものではなく、問題行動に代わる正しい(適切な)行動・方法を学習していくためのものであるということです。

 

  • 友達に悪口を言う子がいるならば、「悪口を言わない」ではなく、「友達が嬉しくなるような言葉をかける」
  • 授業中、出歩いてしまう子がいるならば、「授業中出歩かない」ではなく、「授業中に机に座り続ける」
  • 給食でふざける子がいるならば、「食べ物で遊ばない」ではなく、「礼儀正しく食事をする」

 

 そして、最も大切なことは、このスキル学習では子どもの同意が必要不可欠であるということです。

 そして、目指すゴールを確認したり、そこまでの過程を共に創造していくことです。

 子どもの意欲付けは言うまでもなく大切で、協力者を誰にするのか、達成した暁には、どのような良いことが待っているのか、など、時間をかけて、子どもの気持ちを確認しながら、進めていくことが必要です。

 

 具体的なステップや方法については、ベン・ファーマン著の『フィンランド式キッズスキル』に書かれていますので、興味があればご一読ください。

 

 目の前にいる子どもたちの健やかな成長や幸せに満ちた人生のために、私たち大人が感情的になることなく、温かい気持ちで彼らと一緒に問題を乗り越える道筋を考え、支援していきたいですよね。

 今日は、私が学んだフィンランド式スキルの考え方を紹介させて頂きました。

 それでは、また!

 

 

  

 

 

「考える」を考える

人は本当は考えたくない

人は考える葦である。

言わずと知れた、パスカルの有名な言葉です。

ところが、本来人間は考えることが苦手です。

(ここで言う考えるとは、問題を解いたり、論理的に読んだりする、認知活動のことを指す)

我々よりも遥かに優れた計算機が安価で手に入り、我々よりも遥かに秀でた将棋ソフトが廉価で購入できます。

ところが、自動運転システムの開発は発展途上だし、プログラムされた動き以外の動作を、自ら生み出すロボットも目下開発中です。

つまり、現段階において、「考える」能力はすでに人間は機械に劣るが、「見る」「動く」などの能力においては、まだまだ機械より数段秀でているということです。

比較するのは難しいですが、やはり「考える」能力は、「見る」「動く」能力に比べるとエラーが多いように感じます。

人は実は考えることを苦手とし、可能な限り考えることを避けているのです。

では、考えることを避けているとき、私たちの頭の中では、どんなことが起きているのでしょうか。

実は、私たちが「考えている」と考えている行為の大部分が、記憶の想起なのです。

 

考えるメカニズム

例えば、今日家を出て、学校や職場に向かうまでの道のりを、私たちは「考えて」いるでしょうか?

おそらく、今まで通った道のりを「思い出して」通学、通勤しているはずです。

靴紐を結ぶときも、その手順(手続き記憶)を思い出して、ほとんど何も考えずに、もっと言えば思い出していることですら意識せずに紐を結べるはずです。

こういったとき、私たちの頭の中では何が起きているのでしょうか?

大前提として「考える」行為は、記憶の想起と密接に関係しています。

本来は考えたくない私たちですから、記憶の引き出しに入っている事柄であれば、考えずに引き出しから引っ張りだして物事の処理にあたっています。

この引き出しがある場所を、長期記憶とよびます。

この長期記憶は、瞬間的かつ無意識的に作用します。

例えば、「北極にいるクマは何色ですか?」と聞いたら、「白」と答えますね。

「北極にいるクマは白熊であり、色は白である」という記憶は、「北極にいるクマは何色ですか?」と問われるまでは、記憶の引き出しの奥、つまり無意識下に眠っていました。

「北極にいるクマは白である」と意識し始めたのも、問いがあったからです。

この、意識したり情報を結合したり、一時的に保持したりする場所をワーキングメモリ(短期記憶)とよびます。

ここまでの流れを再度説明すると、「北極に住んでいるクマの色は白である」という長期記憶の中に眠っていた知識を、「北極に住んでいるクマは何色ですか?」という問いによって、ワーキングメモリ上に引っ張り出してもらいました。

 

「考える」という行為は、このワーキングメモリという俎板の上に、長期記憶という冷蔵庫から必要な情報を取り出したりしまったりしながら、情報を結合したり補完したり変化させたりする過程のことです。

例えば、18×7を頭の中で計算するとき、ワーキングメモリと長期記憶の間では、以下のような作用が起きています(以下、ワーキングメモリをワ、長期記憶を長で記す)。

 

  1. 長:8×7=56という情報を長期記憶から取り出す
  2. ワ:6を解の一部として覚えておき、5を保持
  3. 長:1×7=7という情報を長期記憶から取り出す
  4. ワ:保持していた5と7を足す
  5. 長:5+7=12という情報を長期記憶から取り出す
  6. ワ:12に6を付加する

 

以上の手順を追って、126という答えを導き出すわけです。

ここで強調したいことは、「考える」手順の中で、長期記憶から情報を取り出す手順がいかに多いかということです。

そしてこの事実は、よりよく考えるためには知識の獲得が必要不可欠であることを示し、知識獲得偏重の授業に対しての強い非難に対し、反論の余地があることを示します。

「インターネットが普及した現代社会において、知識は検索すればよい。よりよく考えるスキルを身につけさせることに重きを置こう!」

という機運が高まり、最近では考えるスキルを教える動きが増えています(KJ法やマトリクス表など)。

もちろん、それはそれで大切なことではありますが、それ単体では考えることの本質を捉えた教育には遠いと言えそうです。

インターネット検索で得られた情報は、全てワーキングメモリ上で処理されていることも覚えておかなければいけません。

人のワーキングメモリの総量には限りがありますから(それこそ俎板くらいの狭さなのだろう)、インターネット検索で得られた情報をそこに乗せてしまえば、同時に考えることのできる総量や質は低下してしまうのです。

ワーキングメモリを効率よく使用するには、長期記憶からの情報の出し入れが必要となってくるのです。

そしてそのスムーズな連携こそ、「よりよく考える」ことのメカニズムなのです。

 

「考えなさい」の負荷を知る

以上のメカニズムを理解していると、教室で子どもに対して強いたり課したりする学習活動の捉え方が変わるはずです。

 

再度まとめます。

  1. 「考える」ことは人にとって苦手なことである。
  2. 「考える」ことはワーキングメモリと長期記憶のスムーズな連携によって、効率的になされる。
  3. 「考える」ことはワーキングメモリの総量を効率よく使うことで質の高さを増していく。

 

これだけの高度な活動を支える人間の脳は、宇宙のように不思議ですね。

 

「考える」ことはそれだけで高度な活動なのです。

目の前で一生懸命考えている子どもたちを見るだけで、感動してしまうほどに不思議な活動なのです。

 

学習活動を苦手とするスローラーナーたちに対して、ワーキングメモリ上でエラーが起きているのか、長期記憶の引き出す時点でのエラーなのか、はたまた長期記憶の欠如なのか、より細かな分析ができれば、より効果の高い支援が考えられそうですね。

 

今回は「考える」について考えてみました。

今回の内容は、『教師の勝算』という本に基づき書かれていますので、興味があればご一読あれ!

では、また!

 

 

 

四月にこそ、読みたい書物

年度の始まりに向けて

4月は新年度のスタートです。

新たな子どもたちとの出逢いに胸を踊らせながら、その成長を最大限支援していくために、学級開き、授業開きの準備をしていく時期です。

教師にとって、一年の計は四月にあり、と言っても過言ではありません。

様々なアイデアを盛り込み、昨年度の学びと反省を生かし、準備に工夫を凝らしていく過程も、楽しいですよね(疲弊しきらないようにね)。

今回は、私が個人的に、「年度の始まりにこそ読むべきだ!」と感じている書物を三冊ご紹介致します。

 

神様とのおしゃべり さとうみつろう著

幸せな人生を送るために大切なことは何ですか?

教師の数だけ、その答えは存在し、そしてそのどれもがきっと正しいのだと思います。

学級経営の中で、授業経営の中で、それぞれの言葉でゆっくりと時間をかけて語っていくことでしょう。

その「幸せ」の概念が、深まる(広がる)一冊です。

特に、朝の会、帰りの会、学級通信、生徒指導や教育相談場面、学校行事、学期締め、学級締めなど、あらゆる場面で活用できる、心強い友となることでしょう。

私自身も、大いにインスパイアを受け、道徳の授業のスパイスとしても活用しました。

緻密な論理的構築の中で、「私たちはすでに幸せである」ことが証明されています。

論理的思考が好きな方なら楽しんで読めるはずです。

対になる書物として「悪魔とのおしゃべり」という本も出ていますので、興味があれば!

 

世界最高の学級経営 ハリーウォン著

「黄金の三日間」という言葉を聞いたことがあるでしょうか。

TOSSの向山洋一氏が提唱された言葉だと聞いたことがあります。

実際、TOSSでは学級開きの際の鉄則として扱われています。

ここでは、黄金の三日間の詳細については省略しますが、興味があれば検索してください。

(私はTOSS会員ではありませんが、この「鉄則」に関しては、その重要性を経験則的に強く認識してしています)

 

この「黄金の三日間」というのは、アメリカの教育に由来すると聞いたことがあります。

教育制度が大きく異なるアメリカではありますが、学級開きの力強い参考書となるはずです。

個人的な印象では、TOSSの黄金の三日間の根幹にある概念は「統率」です。

それに対して、この書物の中では、子どもに対しての敬意が常に土台にあります。

四月、その責任感の強さゆえ、ついつい抑圧的、管理的になってしまいがちな学級担任ですが、私はこの書物から、子どもに対してのリスペクトを持つことがいかに大切かを学びました。

私がこの書物を読んだことで子供たちと築けた関係は、互いに敬意を払いながらの信頼関係でした。

師弟関係ではなく、敬愛すべき存在として、同志として、子どもたちと歩んでゆくために、学ぶことが多き一冊です。

ちなみにこの本、世界で一番売れている教育書だそうです。

 

教えるということ 大村はま

言わずと知れた名著です。

「お前に紹介されずとも読んだことあるわい!」という方が多いことを承知で挙げさせて頂きました。

私がは毎年4月になると、必ずこの本を読みます。

一年間、子供たちと共に必死に学びを続けたことで、(自分に甘い私は)達成感や成就感に包まれ、ついついどこか傲慢になってしまうことがあります。

そんな慢心を戒め、初心に帰らせてくれる一冊です。

個人的には、

教室が検査室になっていませんか?

あなたは本当にそれを教えていますか?

という言葉に感銘を受けています。

どこまでも謙虚でいることは、真摯な生き方であると学んだ一冊です。

 

この本が名著と呼ばれる所以は、その内容が普遍性をもった真理を突いているだけではありません。

教育技術が上がったり、教育思想が磨かれたりすると、また違ったフェーズでの学びを与えてくれるという点も、秀逸です。

この大村はまさん自身が大変な勉強家であり、私たちが学ぶことで、違った視点からこの本の内容を読み解くことは、大村はまさんの研鑽のトレースでもあります。

子どもを可愛いと思ったことなどないと語るほどに自己研鑽と目の前の子供たちの成長に尽力された大村はまさんの生き様に、魂が震えます。

そして、これから出逢うであろうあなたの担当生徒への愛情を再確認することになるはずです。

教師なら、必読です。

 

 

さて、今回は以上の三冊をご紹介させて頂きました。

どれも有名な本ですから、「肩透かしをくらったよ!」という方も多いかもしれません。

まだまだ勉強不足の若輩が、自らの学びのアウトプットのために書いているブログであることをご理解頂き、ご容赦下さいね。

 

年度の始まり。

肩の力は入りすぎてはいませんか。

初日から飛ばし過ぎてはいませんか。

疲れ過ぎてはいませんか。

ぜひ、ご自愛いただき、一年間持続可能な良質の教育活動に取り組んで参りましょう。

令和二年度も、よろしくお願い致します。

 

いじめはなぜ起こるのか

いじめの可能性

最近、小学校教諭の同僚に対するいじめがニュースで取り上げられている。

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20191004-00000012-kobenext-soci

いじめ防止を働きかけるはずの教師が、そのいじめを率先して行っていたという点において、この事件は非常にセンセーショナルであった。

しかし、ここで疑問となるのは、この事件はなぜ「いじめ」と呼ばれるのかというところである。

以下、某サイトからの被害者の被害詳細を引用する。

 ・背中をグリグリと肘で押す
・足を踏みつける
・車の上に乗る
・車を蹴る
・車を傷つける
・車内でわざと飲み物をこぼす
・羽交い締めにして激辛カレーを無理やり食べさせる
・激辛カレーを目にこすりつける
・コピー用紙の芯で尻を叩いて腫れさせる
・頻繁に「ハゲ」「ボケ」「カス」といった暴言
・無料通信アプリ「LINE」で別の女性教員に性的なメッセージを送ることを強要
・携帯電話にロックをかけて使えなくする
・まだ仕事があるのに加害者の自宅まで車で送らせる
・無理やり酒を飲ませる

これらの行為は、例えば、街中で見知らぬ人間同士の間で起これば、「暴行罪」「傷害罪」「器物破損罪」「名誉毀損」などに問われる触法行為である。

また、一般企業で起これば「パワハラ」「モラハラ」 「セクハラ」と呼ばれる。

ところが、学校で起こると「いじめ」となる。

これはなぜか。

一般的に、いじめは学校内で起こる問題だと考えられているのだろうか。

いや、そんなことはない。

ママ友いじめ、という言葉が象徴するように、私たちは大人同士でもいじめが起こるということを知っている。

では、「いじめ」の定義とはどこにあるのだろうか。文科省の定義したところによると、

「いじめ」とは、「児童生徒に対して、当該児童生徒が在籍する学校に在籍してい る等当該児童生徒と一定の人的関係のある他の児童生徒が行う心理的又は物理的な 影響を与える行為(インターネットを通じて行われるものも含む。)であって、当該 行為の対象となった児童生徒が心身の苦痛を感じているもの。」とする。なお、起こ った場所は学校の内外を問わない。

となっている。しかしこれは、一般的な「いじめ」の定義というよりは、教育界における「いじめ」の定義にとどまっており、その狭小さが多くのエラーを教師自身に起こしているように感じる。

 

いじめ撲滅を訴え、子どもとともに考えていく教師としての立場を考えると、いじめの正しい理解は必要不可欠だと考える。

 

よって、ここではいじめの正しい理解について考察していこうと思う。

※いじめへの対応、防止策、指導方法などの考察は、別の機会に試みます

 

いじめを規定する2つのキーワード

いじめを科学的に考察しようとする和久田学氏によると、目の前の現象がいじめに相当するのかを判断する上で必要なキーワードとして「アンバランスパワー」と「シンキングエラー」が挙げられるのだという。

 

  1. アンバランスパワー

加害者と被害者の間に、「力の差」が生じる場合、いじめは深刻化しやすいという。その力とは、身体的、精神的な力の差のみに留まらない。

今回の小学校教諭の事件で考えると、まず被害者が一人なのに対し、加害者は四人。人数の差は、そのままアンバランスパワーに当てはまる。

また、年齢の違いにも着目すると、職場での立場や地位、分掌などの差も、アンバランスであったと考えられる。

この事件から離れて言えば、例えばコンピューターやSNSに詳しい者とそうでない者の間には、情報差というアンバランスが発生するし、そのアンバランスは学校でのアンバランスと逆転することだってある昨今である。

いじめが複雑化する背景には、このアンバランスの捻転や重層構造が関係しているように考えられる。

 

2. シンキングエラー

いじめが起こると、いじめの加害者はよく「遊びのつもりだった」「ふざけていた」「いじめているつもりはなかった」と語る。

ところが、やられている被害者は、深刻な傷を心に負っている。

いじめが、ある攻撃的な行動に対しての被害者側の主観に基づいて定義される以上は、いじめの判断は被害者に寄り添って行われるべきである。

被害者の思いを聞き取った後で、加害者の話を聞くと、このような攻撃的行動に対する考え方(捉え方)の差異が目立つ。

この加害者側の攻撃的行動に対する軽視を、シンキングエラーと呼ぶ。

そして、いじめの多くは、このシンキングエラーによって引き起こされる。

 

いじめの正しい理解

もし、学習支援の場において、知識や技術のエラーが子どもに見られたら、正しい知識や技術を身につけさせるための手立てをとるはずだ。

そのためには、

  1. 指導事項の正しい理解を、教師がしていること
  2. 指導事項の正しい理解を、子どもにさせること

が必要となる。

いじめの指導にも、この学習支援と同じ必要性が存在する。

そこで、喧々諤々といじめについて議論される昨今、現場レベルでのいじめの正しい理解を考察してみようと思う。

 

まず、「いじめは絶対に許されないこと」を強調すべきである。

これについては、議論や検討の余地はないので、人権と照らし合わせて、道徳的に考えて論じることは控えよう。

次に、

いじめはどこでも起こり得る

ということを押さえるべきである。

どんなに良い学校でも、あたたかい学級でも、アンバランスパワーやシンキングエラーは当たり前のように存在するからである。

いじめは起こるべきではない、という概念が強いことは良いことだが、反面、いじめは起こってはいけないという信条が、教師、子ども双方にいじめ行為への盲目をもたらすこともある。

その裏側には、いじめが起こる学級は質の低い学級という固定概念が蔓延っているように感じられる。

いじめは、集団として質の高い学級でも日常的に起こり得る。

この共通理解が大切である。

 

マスコミやドラマの扇情的ないじめの描写により、いじめという行為は非常に強烈なイメージをもって、我々の脳に刷り込まれている。

その固定概念を壊すことから、いじめの指導は始まっていく。

誰だっていじめの加害者、被害者になり得る。

子どもだけではない。教師もだ。

そしてそれは、日常の些細な部分に現れる。

決して、非日常的なものではない。

まだまだ、いじめは「非日常的」で、「滅多に起こらず」、「被害者にも原因がある」ために起こるものであるという捉え方をされる傾向にある。

そのシンキングエラーを正していかない限り、いじめは決して学校現場からは姿を消さないだろう。

 

なぜ、いじめ指導は難しいのか

現場の教師に、「いじめの指導は難しいか」と問えば、ほとんどの教師は、「イエス」と回答するはずだ。

現場レベルと言いながら、主観も大きく混ざるが、個人的には、いじめ指導の難しさは、以下の二つにある。

  1. いじめの被害者、加害者の保護者への対応
  2. いじめの事実の認定

 

1については、上で述べたように、いじめ指導の詳細を語る際に考察しようと思う。

2が、難しい。

何が難しいか。それは、

被害者(もしくは傍観者)の訴えにある、攻撃的行為の証明である。

その証拠がなく、加害者と想定される者が攻撃的行為を否定した場合、教師は露頭に迷う。

教師は、警察でも裁判所でもないからだ。

 

いじめの起点となる攻撃的行為の証明。

これが一番難しいところなのである。

教室の中でさえ潜伏化するいじめである。

SNSなどで展開されたときには、学校はすでに二手も三手も後手に回っている。

 

仮に、被害者の訴えがあり、傍観者の証言があったとして、加害者がそれを否定したとしよう。

教師「Aさんを叩いたり蹴ったりしてるという話を聞いたのだけど、それは本当?」

子ども「やってません」

教師「周りの子にも確認したら、見たことがあると言っているんだけど、どう?」

子ども「みんなが嘘をついてます。自分はやってません」

 

さあ、どうしますか?

 

さらにそこに加害者の親が出てきます。

親「先生はうちの子がいじめをしてると言うんですか?」

教師「まだそう決まったわけではありませんが、周りの子からも話を聞いたところ、そういうのを見たという子が複数いたので、話を聞かせてもらいました」

親「それってもううちの子を疑ってますよね?」

教師「疑ってるというか、確認しようとしただけなのですが…」

親「誰がそう言ってるんですか?むしろそうやってうちの子をいじめの加害者に仕立て上げて、いじめようとしている子がいるとはお考えにならないのですか?」

教師「…」

 

もう、こうなると、どうしようもないんです。

文科省の通達は、こういった現場レベルでの困難さを無視しています。

確かに、市町村によっていじめ対策委員会を設置しているところも増えてきているようですが、少なくとも私の勤務校ではその連携や役割の線引きは不透明です。

そしてその実務的、実践的な対応策の曖昧さが、いじめ指導や対策を遅らせているように感じます。

同時に、学校や教師も、いじめ対策や指導として、概念的(道徳的)アプローチに終始し、保護者や子どもに、具体的な対応策や手順は示せていないのが現状です。

子どもは、いじめにあったらどうすればいいのか。

傍観者として、いじめを発見したらどうすればいいのか。

保護者は、子どもがいじめにあっていると感じたらどうすればいいのか。

逆に、いじめの加害者となったらどうすればいいのか。

 

もう、この次元での議論や検討が必要なほど、問題は喫緊です。

また、喫緊であるということは、身近であるということです。

やはり、まずは学校や教師が、いじめに対する考え方を刷新することが優先だと私は考えます。

 

繰り返しになりますが、

いじめは、どこでも、誰にでも起こり得る

ということを念頭に、

「いじめ」に対するイメージのハードルを下げ、その上で絶対に許されるべきものではないという強い信条を持つことが必要なのだと思います。