教え方にもコツがある

幼児、児童、生徒の教育をメインに、自らの学びから、成長するために本当に大切なことは何かを考察していきます。

いじめはなぜ起こるのか

いじめの可能性

最近、小学校教諭の同僚に対するいじめがニュースで取り上げられている。

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20191004-00000012-kobenext-soci

いじめ防止を働きかけるはずの教師が、そのいじめを率先して行っていたという点において、この事件は非常にセンセーショナルであった。

しかし、ここで疑問となるのは、この事件はなぜ「いじめ」と呼ばれるのかというところである。

以下、某サイトからの被害者の被害詳細を引用する。

 ・背中をグリグリと肘で押す
・足を踏みつける
・車の上に乗る
・車を蹴る
・車を傷つける
・車内でわざと飲み物をこぼす
・羽交い締めにして激辛カレーを無理やり食べさせる
・激辛カレーを目にこすりつける
・コピー用紙の芯で尻を叩いて腫れさせる
・頻繁に「ハゲ」「ボケ」「カス」といった暴言
・無料通信アプリ「LINE」で別の女性教員に性的なメッセージを送ることを強要
・携帯電話にロックをかけて使えなくする
・まだ仕事があるのに加害者の自宅まで車で送らせる
・無理やり酒を飲ませる

これらの行為は、例えば、街中で見知らぬ人間同士の間で起これば、「暴行罪」「傷害罪」「器物破損罪」「名誉毀損」などに問われる触法行為である。

また、一般企業で起これば「パワハラ」「モラハラ」 「セクハラ」と呼ばれる。

ところが、学校で起こると「いじめ」となる。

これはなぜか。

一般的に、いじめは学校内で起こる問題だと考えられているのだろうか。

いや、そんなことはない。

ママ友いじめ、という言葉が象徴するように、私たちは大人同士でもいじめが起こるということを知っている。

では、「いじめ」の定義とはどこにあるのだろうか。文科省の定義したところによると、

「いじめ」とは、「児童生徒に対して、当該児童生徒が在籍する学校に在籍してい る等当該児童生徒と一定の人的関係のある他の児童生徒が行う心理的又は物理的な 影響を与える行為(インターネットを通じて行われるものも含む。)であって、当該 行為の対象となった児童生徒が心身の苦痛を感じているもの。」とする。なお、起こ った場所は学校の内外を問わない。

となっている。しかしこれは、一般的な「いじめ」の定義というよりは、教育界における「いじめ」の定義にとどまっており、その狭小さが多くのエラーを教師自身に起こしているように感じる。

 

いじめ撲滅を訴え、子どもとともに考えていく教師としての立場を考えると、いじめの正しい理解は必要不可欠だと考える。

 

よって、ここではいじめの正しい理解について考察していこうと思う。

※いじめへの対応、防止策、指導方法などの考察は、別の機会に試みます

 

いじめを規定する2つのキーワード

いじめを科学的に考察しようとする和久田学氏によると、目の前の現象がいじめに相当するのかを判断する上で必要なキーワードとして「アンバランスパワー」と「シンキングエラー」が挙げられるのだという。

 

  1. アンバランスパワー

加害者と被害者の間に、「力の差」が生じる場合、いじめは深刻化しやすいという。その力とは、身体的、精神的な力の差のみに留まらない。

今回の小学校教諭の事件で考えると、まず被害者が一人なのに対し、加害者は四人。人数の差は、そのままアンバランスパワーに当てはまる。

また、年齢の違いにも着目すると、職場での立場や地位、分掌などの差も、アンバランスであったと考えられる。

この事件から離れて言えば、例えばコンピューターやSNSに詳しい者とそうでない者の間には、情報差というアンバランスが発生するし、そのアンバランスは学校でのアンバランスと逆転することだってある昨今である。

いじめが複雑化する背景には、このアンバランスの捻転や重層構造が関係しているように考えられる。

 

2. シンキングエラー

いじめが起こると、いじめの加害者はよく「遊びのつもりだった」「ふざけていた」「いじめているつもりはなかった」と語る。

ところが、やられている被害者は、深刻な傷を心に負っている。

いじめが、ある攻撃的な行動に対しての被害者側の主観に基づいて定義される以上は、いじめの判断は被害者に寄り添って行われるべきである。

被害者の思いを聞き取った後で、加害者の話を聞くと、このような攻撃的行動に対する考え方(捉え方)の差異が目立つ。

この加害者側の攻撃的行動に対する軽視を、シンキングエラーと呼ぶ。

そして、いじめの多くは、このシンキングエラーによって引き起こされる。

 

いじめの正しい理解

もし、学習支援の場において、知識や技術のエラーが子どもに見られたら、正しい知識や技術を身につけさせるための手立てをとるはずだ。

そのためには、

  1. 指導事項の正しい理解を、教師がしていること
  2. 指導事項の正しい理解を、子どもにさせること

が必要となる。

いじめの指導にも、この学習支援と同じ必要性が存在する。

そこで、喧々諤々といじめについて議論される昨今、現場レベルでのいじめの正しい理解を考察してみようと思う。

 

まず、「いじめは絶対に許されないこと」を強調すべきである。

これについては、議論や検討の余地はないので、人権と照らし合わせて、道徳的に考えて論じることは控えよう。

次に、

いじめはどこでも起こり得る

ということを押さえるべきである。

どんなに良い学校でも、あたたかい学級でも、アンバランスパワーやシンキングエラーは当たり前のように存在するからである。

いじめは起こるべきではない、という概念が強いことは良いことだが、反面、いじめは起こってはいけないという信条が、教師、子ども双方にいじめ行為への盲目をもたらすこともある。

その裏側には、いじめが起こる学級は質の低い学級という固定概念が蔓延っているように感じられる。

いじめは、集団として質の高い学級でも日常的に起こり得る。

この共通理解が大切である。

 

マスコミやドラマの扇情的ないじめの描写により、いじめという行為は非常に強烈なイメージをもって、我々の脳に刷り込まれている。

その固定概念を壊すことから、いじめの指導は始まっていく。

誰だっていじめの加害者、被害者になり得る。

子どもだけではない。教師もだ。

そしてそれは、日常の些細な部分に現れる。

決して、非日常的なものではない。

まだまだ、いじめは「非日常的」で、「滅多に起こらず」、「被害者にも原因がある」ために起こるものであるという捉え方をされる傾向にある。

そのシンキングエラーを正していかない限り、いじめは決して学校現場からは姿を消さないだろう。

 

なぜ、いじめ指導は難しいのか

現場の教師に、「いじめの指導は難しいか」と問えば、ほとんどの教師は、「イエス」と回答するはずだ。

現場レベルと言いながら、主観も大きく混ざるが、個人的には、いじめ指導の難しさは、以下の二つにある。

  1. いじめの被害者、加害者の保護者への対応
  2. いじめの事実の認定

 

1については、上で述べたように、いじめ指導の詳細を語る際に考察しようと思う。

2が、難しい。

何が難しいか。それは、

被害者(もしくは傍観者)の訴えにある、攻撃的行為の証明である。

その証拠がなく、加害者と想定される者が攻撃的行為を否定した場合、教師は露頭に迷う。

教師は、警察でも裁判所でもないからだ。

 

いじめの起点となる攻撃的行為の証明。

これが一番難しいところなのである。

教室の中でさえ潜伏化するいじめである。

SNSなどで展開されたときには、学校はすでに二手も三手も後手に回っている。

 

仮に、被害者の訴えがあり、傍観者の証言があったとして、加害者がそれを否定したとしよう。

教師「Aさんを叩いたり蹴ったりしてるという話を聞いたのだけど、それは本当?」

子ども「やってません」

教師「周りの子にも確認したら、見たことがあると言っているんだけど、どう?」

子ども「みんなが嘘をついてます。自分はやってません」

 

さあ、どうしますか?

 

さらにそこに加害者の親が出てきます。

親「先生はうちの子がいじめをしてると言うんですか?」

教師「まだそう決まったわけではありませんが、周りの子からも話を聞いたところ、そういうのを見たという子が複数いたので、話を聞かせてもらいました」

親「それってもううちの子を疑ってますよね?」

教師「疑ってるというか、確認しようとしただけなのですが…」

親「誰がそう言ってるんですか?むしろそうやってうちの子をいじめの加害者に仕立て上げて、いじめようとしている子がいるとはお考えにならないのですか?」

教師「…」

 

もう、こうなると、どうしようもないんです。

文科省の通達は、こういった現場レベルでの困難さを無視しています。

確かに、市町村によっていじめ対策委員会を設置しているところも増えてきているようですが、少なくとも私の勤務校ではその連携や役割の線引きは不透明です。

そしてその実務的、実践的な対応策の曖昧さが、いじめ指導や対策を遅らせているように感じます。

同時に、学校や教師も、いじめ対策や指導として、概念的(道徳的)アプローチに終始し、保護者や子どもに、具体的な対応策や手順は示せていないのが現状です。

子どもは、いじめにあったらどうすればいいのか。

傍観者として、いじめを発見したらどうすればいいのか。

保護者は、子どもがいじめにあっていると感じたらどうすればいいのか。

逆に、いじめの加害者となったらどうすればいいのか。

 

もう、この次元での議論や検討が必要なほど、問題は喫緊です。

また、喫緊であるということは、身近であるということです。

やはり、まずは学校や教師が、いじめに対する考え方を刷新することが優先だと私は考えます。

 

繰り返しになりますが、

いじめは、どこでも、誰にでも起こり得る

ということを念頭に、

「いじめ」に対するイメージのハードルを下げ、その上で絶対に許されるべきものではないという強い信条を持つことが必要なのだと思います。