学級経営の質を高めたいと思ったら
意図的座席配置をせよ
子どもの座る位置は、学級経営上、大きな意味合いを持ちます。
個人的には、くじ引きなどでランダムに座席を決めることに反対です。
よく、
「担任が勝手に座席を決めたら、子どもから不平不満が出ませんか?」
と聞かれることがありますが、出ません。
そこに、明確な趣意説明があるからです。
なぜ、担任が座席配置を組むのか。
それは、生活の質、学びの質を高めるためという確固たる理由があります。
子どもの人間関係や成長段階、精神状態を具に観察してこそ、担任による意図的な座席配置が学級経営上、大きな意味合いを持つのです。
「私が責任をもって、そのときどきの学級の成長に最も効果的だと考えられる座席配置を決めます。皆さんに任せても大丈夫だと私が判断したら、座席配置は皆さんに任せようと思いますが、それまでは私の決めた座席に座ります。」
これだけで十分です。
教師の前には、そのとき最も厚い学習支援や生活指導、精神的なケアを必要とする生徒を配置します。
真ん中には、学級をリードできる子どもを。
後方には、視野が広く、気配りを期待できる子どもを配置します。
しかし、大切なのは、座席配置だけではありません。
誰が近くにいるのか。
もっと言うと、誰と同じ班に属させるのか。
これが肝心です。
学級の基本構成は、生活班である
学校とは、学級の集合体です。
学級は、生活班の集合体です。
この「生活班」という制度を、学級経営の要とすることで、学級経営の質はぐんと上がります。
班の構成人数は4人です。
それぞれに役割を与えます。
- 班長:話し合いのファシリテーターを行ったり、班長会議に参加する
- 清掃リーダー:清掃活動の重点項目を決めるなど、清掃活動の責任者を務める
- 提出リーダー:連絡帳のチェックを行ったり、提出物に関する責任者を務める
- 給食リーダー:給食当番を決めるなど、給食に関する責任者を務める
大切なのは、責任だけでなく権限と活躍の場を保証することです。
そして、班編成が形骸化することのないように、日常生活のあらゆる場で、この生活班を活用します。
そのため、給食当番と清掃場所は、生活班を基本として学年始めに決めておきます。
班の活動の頻度が高いのは授業です。
班ごとの話し合い。
ここで重要になってくるのは、合意形成や立場の一本化など、明確な目的意識をもった話し合い活動が行われているかどうかです。
「話し合ってください」「意見を出し合ってください」
これでは、自分の意見を言ったら、自分の役割は終了です。
「賛成か、反対か。班で決めてください」「班で一つ、最も大切だと思うものを決めてください」「A,B,Cの中から、班で一つ選んでください」
こういった合意形成の過程の中で、コミュニケーションの基礎をまなんでいきます。
そして、その過程の中で、班の人間関係が醸成されていくのです。
また、班ごとの発表や課題の提出など課すのも、人間関係づくりに効果的です。
毎週、班会議、班長会議を
毎週金曜日の給食の準備の時間に、班長会議を行います。
主に、翌週月曜日の朝に行われる班会議の打ち合わせです。
「給食の準備が遅いのだけれど、その対策を班で考えるから、自分でも意見を用意しておいで」
「体育大会での学級の理想的な姿を、班員に一分間で語るから、練習しておいで」
「このクラスの今の問題点は何だと思う?」 など
班長を務めた生徒には、学級の中枢を担っていることを肌で感じさせるようにします。学級代表2名だけでは、足らないのです。
学級の中で、先頭集団を走る子どもを増やしていくためには、リーダーを担わせることが必要です。
しかし、それは決して押し付け合いで決められてはなりません。
「役割はすべて、立候補で決めます。」
これが鉄則です。
リーダーとフォロワーを
リーダーの育成と同時に、フォロワーを養成します。
リーダーの責任の重さや苦労は、やった人にしか分かりません。
だから、一定の周期でリーダーを変えていかなければいけないのです。
しかしながら、学級代表を頻繁に変えていくことは、学校全体の運営上、困難です。
だからこその生活班なのです。
リーダーとなった子どもには、満足感と達成感を味わわせなければいけません。
そのためには、フォロワーの協力が不可欠なのです。
だから、リーダーの務めが終わるときにはこう語ります。
「あなたたちがリーダーを務めてくれてよかったよ、クラスのために今日までありがとう。もし次、リーダーでなくなったとしても、リーダーの大変さを知った君たちだから、自分の班のリーダーを支えてあげられるはずだよね。よろしくね。」
こうやって、リーダーの育成とフォロワーの育成を同時に行うのです。
学級愛の具体的表現を
よく、「このクラス大好き!」「このクラス最高!」という言葉を卒業文集などで見かけますが、本当の学級愛とは、具体的行動の積み重ねによってしか示されません。
クラスが大好きなら、クラスのために行動するのです。
「愛してる」と口では言いながら、誕生日すら祝わない恋人の言葉は、空疎です。
好きなら、大切に思うのなら、それにふさわしい行動があるのです。
それぞれの役割において、責任をもった行動や活動を積み重ねる場を意図的に設定できる。
これが、学級内班編成のいいところです。
また、意図的、計画的な人間関係の広がりや修復を狙えることも、もちろん利点です。
今日はこれまで!では、また!
塾と学校
時代は変遷している
お盆を前に、我が校では三年生を対象に三者面談を実施しています。
希望者ではなく全員を対象に、1人20分程度。
内容は、学年共通で、
「部活が終わって、夏休みの生活はどうですか?」
「高校の説明会は、どこに参加する予定ですか?」
「11月の三者面談では、こんな流れで受験校を決定していきます」
「卒業アルバムの写真を選んで下さい」
の四点。
保護者からの質問では、
「うちの子どもが希望している〇〇高校は、どれくらいの点数で受かるのですか?」
という点をよく聞かれるのですが、なぜがその質問に対しては11月の三者面談まで言及しないと学校で決められています(理由は不明です)。
この三者面談、いりますか?
保護者の最も関心の高い質問に答えられず、
一学期の学年懇談会で提示した情報と同じ資料で11月までの流れを確認するだけの、形骸化した三者面談(だと私は感じています)。
そのために予定を調整する、働いている保護者の方々のご苦労を思うと、本当に申し訳なく感じてしまいます。
管理職には、「希望者だけで良いのではないか」と提案したのですが、「毎年やっているから」という理由で今年度も実施することになりました。
夫婦共働きが増え、平日の昼間に学校に来ることのハードルは、昔に比べて格段に高まっています。
その対価として相応しくない現状の三者面談を強いる発想は、「古い」ように感じます。
時代は変遷しています。
過去の遺物は、学校現場にはたくさんあります。
時代にアジャストしていない行事やシステムを、「毎年実施してきたから」という思考停止の状態で引き継いでいくのは、如何かと思います。
しかし、そのことを感じながら現状を変えられていない私も私なので、その責任を管理職に転嫁するつもりは全くありません。
三者面談の中で、「塾」の話題がよく出ます。
「塾」の占めるウェイトも、年々重くなってきているところではあると思いますが、塾に対して敵対心を抱いている教員は少なくありません。
今回は、「塾」に対する私の思うところを書いてみようと思います。
それぞれの役割は?
受験の夏、塾に通う子どもの学習時間は、塾に通っていない子どものそれを遥かに上回ります。
学校の課題に加えて、塾からも宿題を課されている子どもの様子は、まさに受験生然とした「勉強漬け」の毎日を送り、げっそりしています笑。
塾の売りは、「学習環境」であると感じます。
塾に入った子どもの学習時間が、強制的であれ増加することは、保護者からすれば安心材料の一つになるのかもしれません。
本来であれば、塾に頼らずとも自発的に勉強する子どもを育めれば理想なのですが、子ども、教師、保護者が三位一体で努力しなければ、実現する蓋然性は低い理想でもあります。
また、受験に関するデータベースも、塾の方が上だと思います。
(受験校の内情に関しては、学校の方が熟知しているかもしれない)。
圧倒的な問題数に取り組ませ、経験知を積ませていくやり方は、力技のようにも感じますが、一定の効果も認められると考えます。
学力の向上において、問題数をこなすことも大切な要因ですから、学校としてもその恩恵を受けている部分があると思います。
塾の関係者の方からは批判を受けてしまうかもしれませんが、以上の点から、塾の役割は、子どもの学習能力のうちの「経験則」を、演繹的、帰納法的なアプローチでもって育んでいく点にあるように感じます。
では、学校は?
認知能力で言えば、論理的思考力や批評力、表現力などを中心に高めることが出来る機会が多くあるように感じます。
また、非認知能力を大きく伸ばすことが出来るところも、学校ならではの特徴でしょう。
どちらも子どもの成長には、欠かせない大切な要素であり、どちらも子どもの成長に大きく貢献している。
ただ、子どもの話を聞く限りでは、塾の講師の中には学校の教員やシステムそのものを批判している人もいるそうですし、学校の教員も然り。
共にかけがえのない、やり甲斐のある責務を背負いながらも、決して手を取り合うことのない二者。
不思議だなあと思います。
いいとこ取りをしよう
私は力のない、しがない一教員ですから、塾と学校の歪な関係性に大きな亀裂をもたらすことは出来ません(せいぜいこのブログにて、不思議だなあと呟くことが関の山)。
しかし、保護者や子どもに対してメッセージを発することは出来ます。
それは、「いいとこ取りをせよ」ということです。
塾には塾のいいところがあります。
学校には学校のいいところがあります。
どちらにも、力のある、信頼に足る大人はいるものです。
アプローチは違えど、どちらの機関の大人も、目の前の子どもの成長を願い、自らの生き様を通して、大切なことを伝え続け、心と腕を磨き続けています。
そういう大人は、他方の批判をすることはありません。
子どもの成長こそ優先すべき事項ですから、その成長に寄与するであろう要因を批判するべくもありません。
塾の先生から教わるも良し。
学校の先生から教わるも良し。
人生我以外皆是師也。
学校の教員として、塾のシステムや教え方が学校の目的にとって有益であれば、それは率先して取り入れるべきでしょう。
しかし、残念なことに、双方がコミュニケーションをとることといえば、「塾のパンフレットの配布の許可」程度でしょう。
個人情報の観点からも、学校が塾に対して子どもの情報を開示することは難しいかもしれませんが、進度や教え方などで共通理解を図ることは可能ではないでしょうか?(企業秘密な部分も多くあるのかな?)
個人的には、開塾者の著書や、有名講師のメソッドに学ぶところは多いように感じます。
森絵都さんの『みかづき』には、考えさせられる部分が多くありましたが、
様々な問題を抱える教育現場で、学校と塾が手を取り合い、未来を担う子どもの成長に邁進していく日々が来ることを、現場から願っています。
うまくまとまりませんが今日はここまで!
子どもを伸ばす一番の方法
キーワードは内的動機づけ
『奇跡の指導法』という本を読みました。
とある高校の吹奏楽部の指導をされている方の著書でしたが、子どもの力を伸ばすためには「褒める」ことだと書かれていました。
このこと自体は決して真新しい主張ではありません。
しかし、昨今「個人主義」が跋扈する日本の社会において、「正しく」子どもを褒めることは教師だけでなく、子育てに関わる全ての大人にとって重要な技術だと感じています。
「正しく」とはどういうことか。
それは、なぜ「褒める」のか、という本質的な問題と大きく関わっています。
なぜ「褒める」のか、という本質に切り込んでいくと、
- 何を褒めるのか
- どう褒めるのか
- いつ褒めるのか
ということを改めて考える必要がありそうです。
何を褒めるのか
なぜ褒めるのか。
答えは簡単です。好ましい行動を強化するためです。
極端な例えで言えば、好ましい行動に対して、パブロフの犬状態にするためです。
また、褒めることは、その手段や内容によって、子どもの自尊心、自己肯定感、帰属感を高めます。
ところで、アンダーマイニング効果という行動経済学の用語があります。
これは、もともと好きだったことに対して、その活動によって引き起こされる結果に対し、報酬が与えられると、本来好きだったことに対する情熱が減退するという効果です。
これは、外的動機づけの危うさを示しています。
外的動機づけというのは、子どもの意欲を高めるために、報酬やご褒美などの外的な要因を活用することです。
例えば、「テストの点数が80点以上だったら、お小遣いをあげるよ」「順位が10位以内だったら、携帯を買ってあげるよ」と交換条件を提示して子どもの学習意欲を喚起しようとする方法は、外的動機づけに当たります。
本来、頑張ったことに対して結果が付随することは、それだけで達成感や成就感を味わえることなのです。
報酬やご褒美は、こういった本来の達成感や成就感を薄め、「ご褒美が手に入った」という人工的(二次的)な因果関係を子どもに誤学習させてしまう危険性があります。
有り体に言うと、「頑張るとご褒美がもらえる」と子どもに教えていることになります。
すると子どもはどうなるか。
「ご褒美がもらえるから、頑張る」ようになります。逆を言えば、「ご褒美がもらえなかったら、頑張らない」ようになってしまう可能性が高まります。
結果に対して報酬やご褒美を与えることは、結果を褒めていることです。
褒めるべきは、その努力の過程や経過です。
「今回はいつもより早くテストの準備にとりかかっていたね」
「夜遅くまで、本当によく頑張っていたよね」
「勉強方法をよく工夫していることが伝わったよ」
強化したい行動は褒める。
これが人間の脳にとって一番効率的なのです。
結果を出せたことが尊いのではなく、結果を出すために積み重ねた努力が尊いのだ。
義務教育を担う教師だからこそ褒めてあげられる観点ですよね。
社会に出ると、成果至上主義が待ち受けていますから。
何を褒めるのか?
子どものうちは、とにかく過程を褒めてあげましょう。
どう褒めるのか
子どもの発達段階に応じて、褒め方も変えていくべきです。
まず、幼児期の子どもはスキンシップを中心に、大げさに褒めます。
(抱きしめながら)「お手伝いしてくれて本当にありがとう。気が利くね!」
(頭を撫でながら)「お友達にオモチャを貸してあげられたね!優しいなあ!」
子どもが小学生に上がった頃から、少しずつ語彙を豊かに、笑顔で端的に褒めます。
「一人で起きられるなんて、驚いたなあ!」
「もう宿題が終わってるなんて、さすが!」
「お風呂洗ってくれたの?嬉しいなあ!」
中学生になったら、場面にもよりますが短く褒めることがいいでしょう。
「感心しちゃうなあ」
「私には真似できない」
「ステキな姿を見たなあ」
この変遷の中の、歳が上がるにつれて強まる「メッセージ」にお気付きですか?
それは、iMessageです。
「私がどう思うか(感じるか)」を伝える割合を増やしていくといいでしょう。
もちろん、幼児期の頃から、iMessageを伝えていくことは決して悪いことではありません。
これは、社会脳が発達する段階に合わせて、自分のための努力より、他人のために努力することの方が、道徳的価値としては深いことを伝えていくためです。
自分の行動により、他の人(この場合、褒める人)にも利益がもたらされていることを伝えてあげることで、利他の行動を強化していくことにも繋がります。
いつ褒めるのか
これは、少ない方が希少価値が高い、という市場の原理とは真逆で、多ければ多いほどいいのです。
褒めるべきポイントを見つけたら、即褒める。
何回褒めてもいいのです。
何回も褒めることがいいのです。
疎まれるくらい褒めましょう。
しかし、褒めるポイントやピントがズレていてはダメです。
何でもかんでも「褒める」ことは違います。
それは、「褒める」ではなく、「阿る(おもねる)」ことであり、正しくない行動に対しては、適切な指導をきっちり行うことが大切です。
「褒める」とは、「認める」ことですから、道徳的、社会的に認められない行動を褒めるのは、仮にリフレーミング出来たとしても、好ましくない行動を増やすトリガーになりかねないので、避けましょう。
私は、自分の教室では毎日一人一回は褒めるように心がけています。
「給食を配膳するのが早い!あなたのおかげで皆の食べる時間が確保されているんだね。」
「また手紙配るの手伝ってくれるの?気配りのプロだなあ。」
「雑巾がけをあなたのように隅々まで出来る人はなかなかいない。」
ここでは割愛しますが、中学生三年生ぐらいになると、担任との信頼関係の強さにもよりますが、その褒める言葉の中にユーモアを含め、照れ笑いではない「笑い」を喚起することもできます。
これも、一つのテクニック。
褒められることは、愛情を注がれることです。
たくさんの愛情を注がれた子どもは、幼く見えることが多いと言います。
なぜか。
素直だからです。
教師は特に、子どもを成長させるプロですから、この褒める方法や語彙に関してはプロ意識を持たなければいけないと考えています。
しかし、残念なことにこんな声をよく聞きます。
「〇〇は、褒めるところがないんですよね。」
一つ目。あなたの見る目がない。
二つ目。なければ作れ。
褒めるプロなんだ
褒めるところはいくつでもあります。
例えば、授業中に「自分の考えをノートに書きましょう」と指示を出したあとで、何もしていない生徒がいたとします。
あなたなら、どう褒めますか?
これは、発達障害を抱えている子どもには特に大切な支援です。
発達障害については、また後日書きます。
さて、考えられる褒め言葉はこうです。
「お、考えてる、考えてる」
「真剣な表情がいいね」
(先述した通り、好ましくない行動が別に付随していたら、それは適切な声掛けでもって、修正を促しましょう。今回は、あくまで、「(迷惑な行為も含めて)何もしていなかった」場合です)。
中学生であれば、短く「よし!」「正解!」だけでも効果があります。
また、ハンドジェスチャーや表情だけでも褒めることは可能です。
また、褒めるところがないと嘆く前に、活躍の場を作れていない己の非力さを嘆くべきです。
お手伝いをお願いするだけだって、褒めるポイントはいくつも生まれます。
「頼まれたことを快く引き受けてくれるあなたは、本当に気持ちが良いね!」
「そのフットワークの軽さは、すでに私の相棒だね。」
「その手際の良さはもはやプロ級だ。」
活躍の場を設定し、成功までのプロセスを支援する。
教師の基本です。
そのことを怠っておきながら、褒めるところがない、なんて愚かです。
この豊富さにおいて、別業種に劣っては教師の名が廃ります。
かく言う私も、まだまだ発展途上。
子どもの心に残るような褒め言葉や、それを見極める目を、今も現場で磨き続けています。
今日はここまで!
子どもにやる気を起こさせるには
やる気は習慣に起因する
「やる気スイッチ」という言葉が一時流行りましたが、中学三年生の三者面談などで、「先生、子どもが全然勉強をやる気にならなくて」という相談を受けます。
中学三年生という時期に限定して言うと、やる気を失うメカニズムは大概「習慣」に起因します。
勉強に限って言うと、やる気がないから勉強しない、というパターンではなく、ダラダラしている間にやる気がなくなっていく、というケースが多いように感じます。
では、やる気が失われる悪しき習慣にはどのようなものがあるのか。
- スマホ
- ゲーム
- 生活習慣
それぞれ考察していきます。
SNSの弊害
『2時間の学習効果が消える! やってはいけない脳の習慣』という本には、衝撃的なデータが掲載されています。
それは、全く勉強しない子どもより、2時間勉強して、4時間スマホをいじる子どもの方が、学力は低くなる傾向にあるというデータです。
特に、SNSは前帯状回(注意の集中や切り替え、衝動的な行動を抑えるという機能を司る部位)を縮めてしまうそうです。
脳には可塑性(ある物質の柔軟性)という機能があり、思春期の脳は特に可塑性が高いそうです。
多感な時期に、SNSでどんな情報がやり取りされているか、ということに気を取られてばかりいると、集中力の高まりが阻害されるようになり、結果的に学習に悪い影響を与えるそうです。
LINEなどが頻繁に鳴り響く環境の中で、子どもの脳は「パブロフの犬」のように、LINEの通知音に反射的に反応するようになってしまいます。
ビアプレッシャーが特に強い思春期の子どもにはやはり、その利便性と秤にかけても、私には不必要と感じてしまいます。
SNSに夢中になってしまうことが、結果的に子どもの学習に対する意欲を奪っていくのです。
ゲームや動画がやる気を奪う
ゲームや動画といったメディアは、前頭前野(思考力、判断力、感情などを司る部位)の血圧の低下を招くという研究があります。
よく、幼児期にテレビばかり見て育った子どもがコミュニケーションに難を抱えたり、無感情になったりすると言われますが、これも前頭前野への悪影響だと考えられます。
よく勘違いされるのは、やる気とメディアの因果関係です。
やる気がないから、ゲームをしてしまうのではなく、ゲームをするからやる気がなくなる、という因果関係が真です。
そしてそれは、子どもの未発達な自制能力では如何ともしがたいことです。
保護者の管理監督や、明確なルールが徹底されている環境下になければ、子どもがゲームや動画に耽溺するのは自明の理です。
心の弱さではないのです。
これは、マシュマロテストという研究でも明らかになっていることです。
マシュマロテストは、子どもの自制心のメカニズムの解明を目的に行われた研究です。幼児期の子どもに「このマシュマロを食べてもいいけど、私が部屋を出てから戻ってくるまでに食べるのを我慢できれば、もう一つマシュマロをあげるよ」と言って大人は部屋を出ます。その後の子どもの行動を観察すると、マシュマロを食べずに我慢できた子どもと、そうでない子どものある行動の違いが如実になりました。
それは、誘因物質(この場合はマシュマロ)に対するアプローチ回数の多寡です。
マシュマロを我慢できた子どもは、別の遊びに興じることで、マシュマロを見る回数が限りなく少なかったそうです。それに対し、マシュマロを我慢できずに食べてしまった子どもは、マシュマロから目が離せず、触ったり匂いを嗅いだりして、マシュマロに接している時間と回数が多かったそうです。
つまり、子どもの自制心は、誘惑物に対する接触回数と時間によって規定されるということが明らかになったのです。
学習でいうと、その誘惑物はディストラクターと呼び、そういったものを一切排除するなどの環境の整備も、質の高い学習には不可欠だそうです。
ゲームや動画が手の届くところにありながら、勉強に集中しろ、と言うのは、土台無理な話なのかもしれません。
やる気は生活習慣から
規則正しい生活習慣は、脳のドーパミンやセロトニン、エンドルフィンなどの分泌を促します。
自堕落な生活をしている状態では、なかなか勉強に向かうモチベーションも上がりません。
では自堕落な生活習慣を破壊するにはどうすればいいか。
まず、自堕落な習慣の前にあるトリガー(引き金)となっている行動に着目します。
例えば、「家に帰ったらソファに寝転がってスマホから手が離せない」という自堕落な行動には、「ソファに寝転がる」というトリガーが存在します。
それを避けるには、当たり前ですが「ソファに寝転がらない」ことが大切です。
そうやって、自堕落な行動を引き起こす要因となっている行動を避けることで、定着してしまっている「自堕落な行動」を避けることが必要なのです。
そもそも、学習も習慣です。
この習慣づくりは、主に小学校低学年でその基礎が築かれます。
この時期に、決まった時間机に向かう習慣がしっかりできている子どもは、やる気のあるなしに関わらず、机に向かうようになります。
その時に、親の支援は絶対必要です。
子どもが宿題をする手助けをしたり、「偉いね」と認める声かけを行い、その行動を強化して習慣へと昇華させることで、子どもの学習習慣を確立することです。
「勉強は、やる気があってもなくてもするものです」と言えるのは、そういう学習習慣が確立されている子どもに対してです。
例えば歯磨きは、やる気がなくてもします。
それは、歯磨きが習慣になっているからです。
学習も、その習慣のレベルにまで引き上げ、「やらないと気持ち悪い」「勉強しないと落ち着かない」という気持ちにさせることが、親の大きな役割と責任ではないでしょうか。
子どもをやる気にさせるには
ここまで、やる気のメカニズムについて書いてきましたが、個人的に子どもをやる気にさせるための大人の役割は大きく二つだと感じています。
- 褒める
- 目的意識とゴールへの過程をフィードバックする
一つ目に関して言えば、「増やしたい(強化したい行動)は褒める」ことが鉄則です。
この時に気を付けなければいけないことは、結果ではなく努力過程を肯定的に評価することです。
特に注意すべきは、外的動機付け(報酬)を与えてはいけない、ということです。
結果に対して外的動機付けを行うと、その行動に対して子どもがマイナスの感情を抱いてしまうということが行動経済学で明らかになっています。
これを、アンダーマイニング効果と言います。
詳しくは、『ヘンテコノミクス』という本に書いてあります。
結果ではなく、努力の過程に対して、常に肯定的なフィードバックを行いましょう。
二つ目に関して言うと、まずその行動の先にある目的をしっかりと確認させてあげることが大切です。
「とりあえず頑張ろう」では、人は頑張れません。
その努力は何のために行われているものなのか、その意義をしっかり語って聞かせてあげないといけません。
また、子どもがゴールまでの道のりの間のどの位置にいるのかについても、共有してあげないといけません。
「今、ゴールまで七合目の位置まで来たね」
「あと10点点数が上がれば、目標達成だね」
「この問題集を終えたら、復習に関してはクリアだ」
そうやって励まし続けながら、子どもの横を併走してあげましょう。
よく、学習はマラソンに例えられますが、それは決して孤独な闘いではなく、協力者、理解者として私たちがいることを納得させ、支え続けることも、教師の大切な役割だと言えます。
今日はここまで。
では、また!
教師として子どもを惹きつけるためには
周りとは一味違う教師になる
「教師は忙しい」
ありがたいことに、世間の注目が教師の仕事量に対して同情的になっています。
しかしながら、現場レベルで言うと、その世論に胡座をかくような、不勉強な教師が多いのも事実です。
子どもの前に、一人の尊敬できる大人として立ち続けるために、私たちがしなければいけないことは何でしょうか。
それはずばり、勉強です。
子どもに「勉強しなさい」という立場でありながら、また、教育基本法でその修養が明確に定められていながら、教育書の一冊も読まない教師の、なんと多いことか。
残念なことですが、そういった教師がたくさん存在する現状では、せっかくの世論の教師の仕事に対する理解の深まりに甘えるわけにはいかないと強く感じます。
そんな「その他大勢」の教師に埋没することなく、
「私は、皆さんの3倍勉強しています」
と胸を張って、子どもたちに伝えられる教師が、子どもの信頼を勝ち得るのです。
信頼関係はどこで築くか
子どもとの信頼関係を築く場は、どこでしょうか。
部活動、学級経営、教育相談、生徒指導、学校行事など。
挙げればキリがありませんが、私は授業だと思っています。
とある教室に「授業が勝負、授業で勝負」という言葉が高々と掲げられているのを目にしたことがあります。
担任の教師は子どもに対して、授業を大切にしていこう!というメッセージを発したかったのでしょう。
しかし、この言葉を胸に刻むべきは、明らかに教師自身です。
事務処理を始め、部活動指導、保護者対応など。その業務が多岐に渡るなかで、少しずつ薄れがちなのが、我々が授業のプロであるという矜持です。
例えば、塾に通う子どもが増えている中で、「塾の先生の授業の方が分かりやすい」と言われたら、教師としては強い自己否定と共に、具体的努力を誓わなければいけません(普通はそんなこと言われなくてもしますが)。
教師の本業は、授業です。
圧倒的な統率力をもって、子どもの脳を動かし続け、ユーモアを交えながら、褒める場面を意図的に設定し、端的に褒めて認める。
そうやって、子どもが成長を自覚出来るような工夫を盛り込みながら、達成感と成就感を味わわせる。
その繰り返しによって、子どもは教師を信頼するようになります。
逆もまた然り。
忘れてはいけないスタンス
このブログの中では、授業づくりについて今後も様々なアプローチと分析、考察を試みていくつもりですが、今日は、教師として子どもを惹きつけるための最低条件をお伝えします(十分条件ではない)。
「親しみやすい」と子どもから慕われる教師はたくさんいますが、その上の次元の「信頼できる」教師になるためには、常に学習者として同じ立場に身を置くことが必要です。
上でも述べた通り、その心構えは
「私は皆さんと同じ学習者だよ。私も学び続けます。」
「人生我以外皆是師。皆さんからも学び続けます。教え、教えられの関係を築きましょう。」
「学習者として皆さんのお手本となれるように、私は皆さんの3倍は勉強するよ。この夏は、教育書を50冊読むからね。」
といったような言葉で語られるでしょう。
教える立場であると驕ることなく、一学習者として子どもよりも謙虚な姿勢を示し続けることで、必然的に子どもとの心の距離は、リスペクトという土台の上で縮まるのです。
よく、若手の教師が「子どもと友達になっちゃダメだよ」とベテラン教師から言われますが、それは双方の関係性の土台に、教師としてのリスペクトが欠けているからです。
親しみやすさだけで子どもと心の距離を縮めようとすると、どこか阿る(おもねる)部分が出てきてしまい、結果として「友達」と同じ立場までその身を落とすことになるのです。
「あの先生には敵わない。」
そんな存在感でもって、誰よりも子どもと近い立場で学び続け、切磋琢磨することで、子どもは理想的な距離感での「親近感」を抱くものです。
そんな教師でも、失敗したり上手くいかなかったりすることです。
そんなときは、「ごめんね、勉強不足だったね、必ず成長します。」と素直に謝ってしまうことです。
これが出来ない教師が本当に多いものです。
失敗した事実以上に、その後の対応一つで、その教師の器の大きさは計られるものです。
貪欲に、謙虚に、カリスマ性を発揮できるだけの力量を。
言うは易し、ですが。
子どもから学び続ける
子どもは、大人より素直です。
多感で、エネルギッシュで、柔軟で創造的です。
そんな子どもに学ぶことは本当に多い。
ちなみに、私が一学期を終え、夏休みに入る前に最後に書いた学級通信には
「1+1が2ではないことを教えて頂き、ありがとうございました。」と書きました。
一方で同調圧力という危険性を孕みながらも、思春期の子どもたちが見せる青春の輝きは、大人にとっては一際眩しいものです。
そんな貴重な一ページを共有させて頂いている。
私たちは私たちで、そんな煌めきに惹きつけられているのかもしれません。
部活動で最後に何を語るか迷ったら
部活動の意義
働き方改革の煽りを受けて、部活動の在り方も大きく変わってきています。
週休二日が原則となり、練習時間も三時間程度とのお達しが文科省から来ています。
現場でも、実際に部活動が教員の大きな負担になっていることは間違いないので、個人的には良い流れかなあと感じています。
しかし、部活動は教員にとって、「負担」であるだけでは決してありません。
そこには、学級の中では味わえないような子どもとの絆の深まりや、達成感、成就感を共有できる時間があります。
それはまるで、合唱大会や体育大会でクラスが一致団結して進んでいくような躍動感でもって、時には笑い、時には涙し、そんな青春の時間のお裾分けを頂いているような感覚になることもあります。
だからこそ、部活動をやり甲斐と感じている教員も多く、この部活動の在り方には賛否両論あるのかなあと思います(ただ、負担に感じている教員の方が圧倒的に多い印象です)。
そんな部活動は、ランダムに割り振られた学級とは違い、同じ志や趣向を抱いた集団であるため、学級とは異なる指導が可能です。
その点に、教員の負担となってなお余りある、部活動の価値があると考えます。
学級では共有できない感動が部活動で味わえることで、子どもの心を揺れ動かすような言葉がけも可能になります。
強い目的意識を共有出来ていれば、子どもの自分磨きに対する支援の言葉も、心に落ちやすくなります。
そして引退のとき。
教員が語る言葉が、宝石のような輝きをもって子どもを照らし、その思い出や経験を胸に、進路選択へと歩みを進ませる。
最後に何を語るのか。
教員にとって、一つの勝負の場です。
布石を打つ
引退を見据え、逆算的に指導場面を構築していくという点が、学級解散や卒業を見据え、学級経営を行っていく点に酷似しています。
両方において言えることですが、顧問や担任として、最後を見据えながら、途中でいくつ、どんな布石を打つのかはとても重要です。
行き当たりばったりの指導や声かけではなく、あくまでゴールを見据えながら。
ここで重要になってくるのが、「手段」と「目的」の明確な区別です。
学級経営やチームづくりで失敗する教員のほとんどが、この二つを同一のものと考えています。
例えば、「県大会に行く」はどちらにあたると思いますか?
答えは「手段」です。
部活動が教育活動の一環である以上、勝敗に関わることは須らく「手段」として捉えられるべきです。
県大会に行くことが「手段」だとしたら、その上位概念である「目的」は何か。
例えばそれは、「仲間との強固な絆づくり」かもしれませんし、「諦めない心」を育むことかもしれません。
手段は手段として、目的は目的として語り分けることは、最後に何を語るのかに大きく影響を与えます。
最後に語る言葉
手段と目的を棲み分けて語り続けることで、最後に語る言葉も一貫して強い響きを持つようになります。
上で挙げた「県大会に行く」ということを「目的」として一年間を過ごしてきた部活動では、県大会に行けなかったときに子どもの心を打つような言葉をかけてあげることが難しくなります。
なぜなら、その状況では、どう考えても目的が達成されていないからです。
目的が達成されていない状況で、顧問が何を語っても、それはその場しのぎの誤魔化しとして聞こえてしまいます。
県大会に行けず、涙する子どもたちに向かって、
「よくここまで頑張ってきたよね」
「仲間と努力した時間が貴いよね」
「一生の思い出が出来たよね」
などの言葉をかけるのなら、最初から
「どんな時でも諦めずに前向きにプレーできる集団になろう」
「本音でぶつかり、競い合える強固な信頼関係で結ばれた集団になろう」
「一生の思い出に残るような時間を共有しよう」
という目的にしておけばいいのです。
その目的を達成するには「県大会に出場すること」が手段として考えられるから、まずは県大会出場を目標に頑張って行こう、と下位概念を定めていけばよい。
そうすれば、仮に県大会出場を逃したとしても、「手段」はいくつもあるのが定石ですから(つまり目的達成のための迂回路はいくつも用意されているから)、
「県大会出場は叶わなかったけど、当初の目的通り、君たちは…」と語れるわけです。
最後に何を語るのか。
それは、「目的の達成」に気付かせ、労い、感謝し、そして次の一歩を後押しするような言葉であるべきです。
いつだって、終わりは始まりなわけですから。
授業が分からないと言われたら
教えようとするから分からなくなる
前回も書いた通り、教えようとする意識が強いと、授業はつまらなくなります。
その弊害は、「授業が分からない」という生徒の声になって現れることもあります。
なぜ、丁寧に教えようとすると、子どもにとって分かりにくくなるのでしょうか。
それは、教えようとすると教師の言葉が増えるからです。
教えるということは、昨今では「説明する」と近いニュアンスで使われることが多いように思います。
少なくとも、現場ではそのように理解している教師が多い現状です。
丁寧な教師ほど、言葉を尽くして教えたい内容を説明しようとします。
この丁寧さが、厄介なのです。
教師はあくまで善意から(子どもに理解させたいという思いから)長々と説明しているのです。
そのこと自体が、子どもにとって「分かりにくくなっている」とは、露ほどにも思っていません。
ここからは、教師の言葉の多い授業が、なぜ分かりにくくなるのか、原因を書いていきます。
主語と述語の距離感
説明が長い教師の一文は、長いものです。
すると、主語と述語の距離が空き、最終的に「何が」「どうする」のかという意味的な結びつきに齟齬が出てきます。
例えば、「長い形容詞の比較級には、moreを使います」という説明をするとします。
「長い形容詞、あ、形容詞っていうのは名詞を修飾する言葉でsmallとかkindとかのことなんだけど、それを前回勉強した、〜より…だ、ということを表す比較級にする場合には、前回の短い場合はどうだったっけ?そうだね、erを使ったと思うんだけど、今回は新しくmoreを使うってことが今日勉強する新しい内容になります。」
少々極端な例ですが、こういった説明を悪びれることもなく、長々とし続ける教師は結構います。
何度も繰り返しますが、当人は至って真面目に(丁寧に)教えているつもりです。
その結果、「長い形容詞」が主語で「今日勉強する内容だ」が述語になり、本来子どもが理解しなければいけない、「長い形容詞の比較級にはmoreを使う」に辿り着いていないのです。
このまま、上の例を使って、次の問題点を指摘します。
接続詞の乱用
一文を短くまとめていくと、必然的に接続詞を適切に使っていく必要が生じます。
この接続詞は、前の文と接続詞の後で語られる文との関係性を明瞭にしてくれる、便利な言葉です。
従って、接続詞を上手に強調しながら話すことで、分かりやすい説明になります。
ところが、上の例を再度持ち出すと、
「長い形容詞、あ、形容詞っていうのは名詞を修飾する言葉でsmallとかkindとかのことなんだけど、それを前回勉強した、〜より…だ、ということを表す比較級にする場合には、前回の短い場合はどうだったっけ?そうだね、erを使ったと思うんだけど、今回は新しくmoreを使うってことが今日勉強する新しい内容になります。」
と逆説を表す「だけど」が、逆説ではなく、単なる「つなぎ言葉」として使われていることに気付きます。
長々とした説明の中では、「だが」「で」「だから」などの接続詞が、本来の意味とは全くかけ離れた、意味のないツナギとして使われます。
その結果、全体的にボヤッとした説明が出来上がってしまうというわけです。
ちなみにこれは、小学一年生が母親に
「今日ね、学校で国語の授業があって、先生に差されたんだけど、上手に読めてね、そのあとで先生も褒めてくれたんだけど、とっても嬉しくてアキちゃんも褒めてくれて、でもアキちゃんはもっと上手に読めるんだよ、すごいよね」
と説明するのと同じレベルだと思っています。語彙が豊富になっただけで、根本は一緒です。
授業を分かりやすくするには
基本は、教師が話さないのが良いのですが、それでも説明が必要な場面はあるものです。
その場合において、分かりやすい説明をするための最低条件は、
- 「短く」
- 「接続詞を正しく使い」
- 「一文一事」
で説明していくことです。
上で使った分かりにくい説明を思い出して下さい。「長い形容詞、あ、形容詞っていうのは名詞を修飾する言葉でsmallとかkindとかのことなんだけど、それを前回勉強した、〜より…だ、ということを表す比較級にする場合には、前回の短い場合はどうだったっけ?そうだね、erを使ったと思うんだけど、今回は新しくmoreを使うってことが今日勉強する新しい内容になります。」
これを、先程の条件に則って直すとこうなります。
「 形容詞とは名詞を修飾する言葉のことです。例えばsmallやkindなどの言葉のことです。前回は比較級を勉強しました。比較級とは、〜より…だ、を表す表現です。どのようにつくるのですか?そうです、erを使いましたね。しかし、長い形容詞にはmoreを使います。これが今日新しく勉強する内容です。」
※比較級を授業で扱う際に、そもそもこのような演繹的な説明が相応しいかどうかはまた別の話をとしてご容赦下さい。個人的には、二年生までのほとんどの文法は帰納法的な学習が効果的だと考えています。
まず、一文は可能な限り短くしていきます。
これは、小学校でまず指導しなければいけない内容だと感じています。
中学校に上がってきた新入生が書く文を読む限り、このことを指導している小学校教員はそんなに多くはないように感じ、残念に思っています。
次に、接続詞はツナギとしては使いません。
特に、逆説を表す「しかし」は正しく使うことが重要です。
往々にして、逆説で語られることは大切であることが多いためです。
これを続けると、「しかし」と言うだけで、子どもがメモを取るようになります。
最後に、一文一事です。
これはつまり、一文の中では一つの事しか言わない、ということです。
これは、指示を出す場合の鉄則でもあります。
同じように、説明の中でも、一文の中では二つ以上のことを説明してはいけません。
これは、「短く」を徹底していると、自然にそうなるはずです。
授業が分からないと言われたら
まず、授業が分かりにくい理由が「説明」にある場合は、今回のことを意識するだけで、大きく改善されるはずです。
ただし、やはり基本は授業では言葉を削ることが大切ですから、分かりやすく説明しよう!という思いに囚われないようにすることです。
授業が分かりにくい原因は、決して「説明」だけに拠らないはずですから、様々な視点から原因分析をしていく必要があります。
また、このブログで「分かりやすい授業の作り方」についての考察を加えていく予定です。
もし、子どもから「授業が分からない!」と言われたら、「ごめんね、私もあなたみたいに一生懸命勉強して、もっと分かりやすい授業ができるようにするね」と真摯に対応しましょう。
教師も勉強している、という姿勢を見せ続けることで、子どもと同じ学習者であることを伝えましょう。
そうやって子どもと同じ立場に立つことで勝ち得る信頼もあります。
何より、子どもに勉強しなさいと語る教師自身が、子ども以上に勉強してなければ、言うことを真剣に聞いてくれるはずがないのですから。
私も、もっともっと勉強しないといけないと感じています。
では、また!