授業がつまらないと言われたら
つまらない授業の特徴
教師をやっていて、生徒から「先生の授業はおもしろい!」と言われることは、活力になります。
授業は全ての教育活動の根幹です。
にも関わらず、その腕を磨くことに無頓着な教師がいかに多いことか。
教師が授業の技術や内容に無頓着で、生徒の成長に無責任な場合、多くの人間が不幸になります。
そこは生徒との信頼関係づくりの場です。
そこは生徒の教育相談の場です。
そこは生徒指導の場です。
シャツが出てるとか、髪型が校則違反だとか、そんなことよりももっともっと大切なことが、そこにはあります。
学力の保証は最大の人権教育です。
成就感や達成感は自己肯定感を育みます。
そんな大切な授業を、ドブに捨てているような場面に出くわすと居た堪れなくなります。
つまらない授業は、一瞬で分かります。
生徒の表情が無機質です。
興奮や疑問、緊張感やワクワクや気付き、そういったものが一切排除された、無機質で予定調和的な時間が緩慢に過ぎ去る空気感。
教室に入ってすぐ、分かる人には分かります。
そんなつまらない授業には、共通項があります。
それは「教師が話し続けている」という点です。
話を聞くことはつまらない
教師になる人は、教えることが好きな人がほとんどでしょう。
それは、学生時代の経験に基づくものかもしれませんが、個人的な「教え」と、授業で大人数を相手にする「教え」は全く違います。
それと同じ感覚で授業実践し、延々と説明し続け、生徒が欠伸をしていたり、集中を欠いた表情をしていても何のその。
生徒は生産性のない、退屈な授業を強いられていると感じ、次第に無為な時間に憤りすら感じるようになります。
これが、不信感の入り口です。
授業で集団を相手にするときに気をつける事は、「教えない」ということです。
そのために必要な活動は、考えさせ、相談させ、気付かせ、書かせ、教え合わせ、振り替え合わせることです。
それは、集団だからこそできる楽しい学習なのです。
また、ラーニングピラミッドの中で、話を聞くことは学習効果の最も低い階層に位置付けられています。
大切なのは、インプットではなくアウトプットなのです。
学習効果の低く、子どもが退屈だと感じる時間を一時間弱子どもに強いるのは、あまりに過酷なことです。
教える側が、過去の教わってきた方法から脱却し、教え方のアップデートをしていかなければいけないと感じます。
教えない教え方とは?
古く寺小屋では、いわゆるアクティブラーニングが実践されていたと聞きます。
そもそも、寺小屋に来るような子どもは、勉強したくて来るようなモチベーションの高い子ども達だったでしょうから、どんな教え方をしてもアクティブラーニングは成立していたはずです(仮に教師がひたすら喋ったとしても、脳みそは何かを学び取ろうとアクティブであったはず)。
意欲の高い子、低い子。
学習が得意な子、苦手な子。
玉石混交な現代の教室では、教えない(教え過ぎない)教え方が大切です。
では、どのように実践していくのか。
それは、ズバリ「気付かせる」ことです。
そして気付かせるためには、創意工夫の伴った「発問」が必要になっていきます。
例えば、現在完了の継続用法を教えたければ、
1 I lived in Japan two years ago.
2 I have lived in Japan for two years.
どんな意味の違いがあると思う?お隣さんに伝えてごらん。
これだけで充分です。
それをタラタラダラダラと説明するからつまらなくなるのです。
そもそも、指導書には気付かせるための様々な帰納法的な手立てがふんだんに散りばめられていますが、教科書に文句ばかりを言い、その意図を読み取ってすらいない教師は、思いの外多いです。
教科書は、本当によくできています。
教師が喋らなければ、子どもたちが良い授業を創る
このご時世で、未だにteacher centeredで授業を行なっているのは、あまりに勉強不足です。
もちろん、情報伝達の手段としては効率的ですから、どの場面においてもダメかと言われれば、活動の目的に応じてそういう時間もあるかとは思いますが、基本はナンセンスです。
発問は短く、指示とセットで。
続けているうちに、裏指示が出来るようになり、喋らなくても子どもが動き始めます。
そうやって極限まで言葉を削っていった結果、出来上がった隙間に、子どもの活動を入れていく。
教師は、教える人ではなく、学びの場をコーディネートする人へと、その役割を変えて来ているように感じます。
授業を創るときは、「何を教えよう」ではなく、「何に気付かせよう」「何を話させよう」「何を教え合わせよう」と子どもを動かすことを中心につくっていくこと。
私は、毎日これを意識して授業を子どもと創っています。