部活動で最後に何を語るか迷ったら
部活動の意義
働き方改革の煽りを受けて、部活動の在り方も大きく変わってきています。
週休二日が原則となり、練習時間も三時間程度とのお達しが文科省から来ています。
現場でも、実際に部活動が教員の大きな負担になっていることは間違いないので、個人的には良い流れかなあと感じています。
しかし、部活動は教員にとって、「負担」であるだけでは決してありません。
そこには、学級の中では味わえないような子どもとの絆の深まりや、達成感、成就感を共有できる時間があります。
それはまるで、合唱大会や体育大会でクラスが一致団結して進んでいくような躍動感でもって、時には笑い、時には涙し、そんな青春の時間のお裾分けを頂いているような感覚になることもあります。
だからこそ、部活動をやり甲斐と感じている教員も多く、この部活動の在り方には賛否両論あるのかなあと思います(ただ、負担に感じている教員の方が圧倒的に多い印象です)。
そんな部活動は、ランダムに割り振られた学級とは違い、同じ志や趣向を抱いた集団であるため、学級とは異なる指導が可能です。
その点に、教員の負担となってなお余りある、部活動の価値があると考えます。
学級では共有できない感動が部活動で味わえることで、子どもの心を揺れ動かすような言葉がけも可能になります。
強い目的意識を共有出来ていれば、子どもの自分磨きに対する支援の言葉も、心に落ちやすくなります。
そして引退のとき。
教員が語る言葉が、宝石のような輝きをもって子どもを照らし、その思い出や経験を胸に、進路選択へと歩みを進ませる。
最後に何を語るのか。
教員にとって、一つの勝負の場です。
布石を打つ
引退を見据え、逆算的に指導場面を構築していくという点が、学級解散や卒業を見据え、学級経営を行っていく点に酷似しています。
両方において言えることですが、顧問や担任として、最後を見据えながら、途中でいくつ、どんな布石を打つのかはとても重要です。
行き当たりばったりの指導や声かけではなく、あくまでゴールを見据えながら。
ここで重要になってくるのが、「手段」と「目的」の明確な区別です。
学級経営やチームづくりで失敗する教員のほとんどが、この二つを同一のものと考えています。
例えば、「県大会に行く」はどちらにあたると思いますか?
答えは「手段」です。
部活動が教育活動の一環である以上、勝敗に関わることは須らく「手段」として捉えられるべきです。
県大会に行くことが「手段」だとしたら、その上位概念である「目的」は何か。
例えばそれは、「仲間との強固な絆づくり」かもしれませんし、「諦めない心」を育むことかもしれません。
手段は手段として、目的は目的として語り分けることは、最後に何を語るのかに大きく影響を与えます。
最後に語る言葉
手段と目的を棲み分けて語り続けることで、最後に語る言葉も一貫して強い響きを持つようになります。
上で挙げた「県大会に行く」ということを「目的」として一年間を過ごしてきた部活動では、県大会に行けなかったときに子どもの心を打つような言葉をかけてあげることが難しくなります。
なぜなら、その状況では、どう考えても目的が達成されていないからです。
目的が達成されていない状況で、顧問が何を語っても、それはその場しのぎの誤魔化しとして聞こえてしまいます。
県大会に行けず、涙する子どもたちに向かって、
「よくここまで頑張ってきたよね」
「仲間と努力した時間が貴いよね」
「一生の思い出が出来たよね」
などの言葉をかけるのなら、最初から
「どんな時でも諦めずに前向きにプレーできる集団になろう」
「本音でぶつかり、競い合える強固な信頼関係で結ばれた集団になろう」
「一生の思い出に残るような時間を共有しよう」
という目的にしておけばいいのです。
その目的を達成するには「県大会に出場すること」が手段として考えられるから、まずは県大会出場を目標に頑張って行こう、と下位概念を定めていけばよい。
そうすれば、仮に県大会出場を逃したとしても、「手段」はいくつもあるのが定石ですから(つまり目的達成のための迂回路はいくつも用意されているから)、
「県大会出場は叶わなかったけど、当初の目的通り、君たちは…」と語れるわけです。
最後に何を語るのか。
それは、「目的の達成」に気付かせ、労い、感謝し、そして次の一歩を後押しするような言葉であるべきです。
いつだって、終わりは始まりなわけですから。